
北京に居たとき、「自分も他人も上手にコントールしてプロジェクト成功させたいよね🎵」と、英語でアメリカ人に伝えたことがある。
すると、そのアメリカ人は多少怪訝な顔をして「コントールするって、すごく違和感がある」と言われた。
流石に自由の国だけあって「コントール」という語感が日本とは違うのだなと感じた。
相手をコントールするのは銃口を突きつけて脅しているようなもの
相手を自分の思うままにコントールするということは、例えるなら、見えない銃を突きつけながら「俺の言うとおりにしろ!」と言っているようなものだ。
それでは、相手は逃げるか、防衛するか、反撃に転じるしかない。
僕は幼い頃から、お寺に生まれて、「好い子」であることを強制されてきて、それが当たり前だと思っていた。社会的な圧力に「コントール」されていたのだろう。
だから、自分の枠から外れる人に対しては、自分の思うようにコントールしようとしてきたけど、巡り巡って、自分がコントールされる強い不快感もあった。
相手は相手の考え方があり、それを是としているのだから、そこまで干渉するほど僕らは偉くも悟っても居ない。
逆説的だけど、自分が相手のコントールを辞めた瞬間から、相手からコントールされることもなくなり、相手は自分が望むような意識や行動の変化が生まれる。
お互いに、銃を突きつけ合うような関係から、絶対的な安心感と信頼感がある、融和へと導かれるようだ✨
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