
昔、あまりにも怒りが強くて、ある時にプツンと脳の回路が切れて、怒りという感情に繋がらなくなったことがある。
面倒だったり何もしたくない気分も同じように、それだけで脳にとっては相当なストレスだから、やがては自己防衛的に脳内回路を繋がらなくなるように意識出来るようになり、面倒や何もしたくない「苦」から逃れられるようになる。
「苦」に焦点を当てない
長い間、面倒な気分ややりたくない気分に焦点が自然と合ってしまっていた。でも、今になって思うと釈迦が人生は「苦」だと悟って、そこから抜け出す道を僕ら示してくれたように、「苦」を見つめる時間というのも大切なものかもしれない。
やがて「苦」は必要ないと気付くと人生は楽になる
「苦」に焦点を当てないこと
例えば、草取りは普通に考えると「苦」だ。抜いても抜いても次から次へと生えてくるし、終わりが見えない。ただ毎日やらないといけないことだから、「苦」を感じながらでは長続きしない。
「くさとり」から「く」を抜くことで「さとり」になる。
草取りするときも「苦」に焦点を当てず、とりあえずやってみると、それほど苦しみを感じないで続けることが出来る。
お寺で掃除が大切と言われるのも、そういう心の修行の側面もあるのかもしれない。
そういえば、タモリも禁煙の中にタバコが吸いたくなったら、意識を10秒ほど他に向けることで、タバコのことを忘れると言っていたし、「苦」に焦点を当てないことも、訓練で身に付く技術なのだろう。
何かしらの楽しみをみつける
草取りにしても、やはり綺麗になったら気持ち良い。香炉掃除にしても、綺麗になったら檀家さんが喜んでくれる。
例えば、僧侶の修行は厳しいけど、その後の懇親会だったり、仲間と会うことだったり、自分なりに何かしらの楽しみを見つければ「苦」から離れられる。
小さな目標を設定
フルマラソンは、最初から42.195km走ろうと思うと相当なストレスだ。あるランナーは調子が最悪のときに、次の電柱まで走ってみよう、次の曲がり角まで。。。と、自分の中に小さな目標を設定して、結果フルマラソンを完走できたという話を聞いたことがある。
小さいといっても目標を達成したのは満足感に繋がり、もっとやれるモチベーションにもなる。
課題量を設定するのも良いし、期限を決めるのも良いかもしれない。
「今」に焦点を当てる
例えば、あまり気乗りしない予定があったとして、そのことばかりずっと考えていると気が滅入る。嫌なことが予定直前まで頭の中にあるのは相当なストレスだ。
そういうときは、「今」に集中して、「苦」に焦点を当てないことで、嫌な気持ちを感じるのは予定直前だけになるから「楽」になる。
余りにも辛いとき
面倒な気分を感じる時は、基本的に考えすぎ。「課題はどうやれば効率が良いのかな?」「これだけ時間が掛かるのは嫌だな・・・」「やりたくないな。。。」と、悶々と悩んで頭が思考停止してしまい、なかなか目の前にある課題に向き合うことが出来ない。
作業興奮といって、ちょっと始めたらやる気は出るものとはいうけど、状態が悪いとちょっと始めようという気分にすらならない。
あまりにも辛いときは頓服もあり
ただ、そうは言っても、経験がないと「苦」に焦点を当てない感覚はなかなか掴めない。意識を「苦」に向けないようにしても、自然と嫌なことが思い浮かんでしまう。
以前はあまりにも辛い時には、フルニトラゼパムを半錠、安定剤的に思考を麻痺させ「苦」を感じないようにして、フルニトラゼパム中毒っぽくなっていた時期あった。
余りにも辛かったら一時的に逃避することも必要なのかもしれないが、それは一時的な対処療法で、最終的には安定剤の力を借りずとも、心の静穏を求めるべきだ。
まず最高のコンディションを求める
僕の場合は参考になるかは分からないが、とりあえず「苦」に焦点を合わせないように意識出来る段階に入って来ている。心に嫌な思いが浮かび上がってきたら、それ以上焦点を当てない。
そうすしてしばらく経つと「苦」を感じなくなるタイミングがやって来る。これも長年の「苦」と格闘してきて培った「智慧」なのだろう。
心身ともに最高のコンディションでその日を過ごすことが出来たら、結果は意識しないでも出るようになる。普段なら「苦」であることも自然と集中してストレスを感じずに行動できる。
毎日の生活で重要になるのは、まず心身ともに最高のコンディションを保つことだ。
習慣にする
例えば、ある音楽家は子どもの頃に、家族で遊びに行ってピアノの練習をする時間がないと、不安になって、「あれ?ピアノは弾かなくても良いのかな?」と楽しめなかったそうだ。
最初は試行錯誤で時間は掛かるだろうが、習慣になるまで粘ることで、ハードルは下がって、「苦」を感じずに、時間が来たら自然と何かをする意識になれる✨
