
僕は真面目過ぎるところがあるのか、僧侶として求める僧侶像がとても窮屈なものだったと思う。真面目というと聞こえは良いが、真剣になりすぎで深刻に悲観的に考えてしまうところがあった。
法事を務めるにしても、「自分が唱えられる最高のお経で、最高のお勤めをしたい!「感動を与えたい!」法話も「一生心に残るようなお話をしたい!」、むしろ僧侶はそうあるべきだとの意識が強かった。
でも、そのことばかりに囚われると心は窮屈になって、「自分は凄いんだ!偉いんだ!」と背伸びして自分を大きく見せたいというような意識だったかもしれない。
その歪んだこだわりの意識はとてもストレスだったのだろう。僧侶として真剣に向き合うと1回の勤行の後は疲れて昼寝しないと保てなかったり、昼寝出来ないときには夕方まで低調なこともあった。
心が自然体でないことにストレスを感じてしまってたいのだろう。
求めるべきは自然体
僧侶としても人間としても、磨いていって辿り着くのは「自然体」なのかもしれないと思う。日本古来の柔道や剣道にしても「自然体」はとても重視されている。
僕らは統合失調症という経験で、真逆にある「超不自然体」とでもいうものを知っている。

常識外のことをするには、まず常識を知らないといけない。
僕らは「超不自然体」を知っているから、真逆にある「超自然体」というのも直感的に理解している!だから、上辺や外見やレッテルに捕らわれず、物事の本質を知る能力が自然と身に付く。・
振り子はやがて逆に振れるから、不自然だったら不自然だっただけ、真逆の超自然体にも辿り着けることは約束されている。
「自然体」になるのは、武道にしても相当の長期間の研鑽が必要だ。僕らも時間は掛かるけど「超不自然体」という人間が持つ理想の意識にずっとなりやすいことを知って、その世界に辿り着いて、後進に道を示せたら!
僕らの示す道のりが世界を変えていく力となるのだと思う🌍

 
  
  
  
  

 
               
               
               
               
               
               
               
               
               
              
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