僕は案外優しいと思われることが多い。実際そういうことはないと思っているのだけど、相手のためにと思って辛くてもイライラしても極限まで我慢してしまうのが習慣になってしまっているだけだ。
で、あるとき閾値に達しする。
あ、こいつダメだ。
そう思ったら、今までの良好な関係をバッサリと断つしか自分を守る道がなくなってしまう。
怒りを抑圧する原因
第一の可能性は怒りを表現してはならないという内的な抑制が掛かる場合だ。
統合失調症になる方はHSP気質の人が多いから、相手のために限界まで尽くしてしまいがちな方も多い印象だ。我慢するが当たり前で、それしか出来なかったりもする。
第二の可能性は、怒りを他者から、あるいは状況に抑制されている場合。例えば、誰かから繰り返し暴力を加える場合、怒りの表現が更に相手からの暴力を増長することがわかっていれば、感情表現は自分を守るために封じられることになる。
家族の中で1番優しい人が心を病む
精神科医に「心を病むのは家族の中で1番優しい人だよ」と言われた方の話を聞いた。1番優しいから家族の怒りのはけ口となり、それを我慢してしまい限界になって心が病むということだろう。
統合失調症と易怒性
統合失調症になると、易怒性という症状もあって、強烈な病的な怒りを感じることもある。最近はSNSなどで心の闇を表現する方も増えてきた。統合失調症はそれだけ不条理な想いを抱かせるということだ。
初回の入院で地獄を垣間見た。
あの苦しみが世界にあることが許されるのか!
抑圧された強烈な怒りをずっと感じてた。
お寺で生まれ育ったというのに、
僕は無神論者です。
臆面もなく人に伝えていた時期もある。
こんなにも激しい怒りが自分の中にあったのか・・・
自分でも驚く程の衝動的な大きな怒りが生まれることもあった。
怒りは自然な感情
ベストセラーで、ニューエイジやスピリチュアル系で有名な「神との対話」という本に次のような一節がある。
怒りは自然な感情だ。「ノー」と断るだめの道具(ツール)だ。必ずしも無礼なものとは限らないし、決して他者を傷つけるものではない。怒ることを許されて育った子供は、おとなになったときも怒りに対して健全な態度でいられる。だから、とても早く怒りから抜け出せる。
怒りはよくないものだと教えられて育った子供、怒りを表してはいけない、それどころか怒りを感じることすらいけないと言われて育った子供は、成人後、怒りをうまく処理するのに苦労する。
抑圧された怒りは、憤怒になる。
非常に不自然な感情だ。
人びとは怒りのために人殺しをしてきた。
戦争が勃発し、国が滅んだ。
お寺の子に生まれて
僕の場合は、実家がお寺ということもあり、怒りやイライラは好くないものだと感じながら過ごしてきた。だから、我慢する以外の選択肢が生まれなかったのだろう。
「僧侶は例え親が死んでも涙を流してはならない」とか「どんなことがあってもお経の途中で席を外すことは許されない」というように教えられてきた。
でも、人間だったら、それは無理(笑)
実際にそう教えてくれた祖父も、生前最後に葬儀の導師をしたときには、亡くなった無二の親友に、
俺もすぐそっちへ行くからな😢
涙ながらに語りかけ、会場は涙に包まれた。
大正生まれで、僧侶としての心得を骨の髄まで知っている祖父の涙は衝撃的だった。
抑圧された感情は吐き出すと楽になる
怒りやイライラは自然な感情だ。自然界で考えると、怒りの感情が湧くときは生命の危機に直面しているときだという。
それを否定して抑圧すると、普段は見えなくても心の奥底で更に大きな憤怒となって育ってしまう。怒りから目を反らすと、やがて形を変えて更に大きな問題となって目の前に現れる。
では、どうすれば・・・💦
怒っている自分をキチンと見つめて、それを認めてあげることだ。怒りを「吐く」。吐くという字から-(マイナス)を取ると、「叶う」になる。
怒りは自然な感情❗
怒りの感情は持ってもいけないし、それを表現してもいけないような社会的な雰囲気も感じることがある。でも、それでは怒りは抑圧されて、いつまで経っても心の奥に残り続け、成長し、後に多大なストレスとなって自己も他人をも痛めつけしまう。
怒りやイライラを感じたとしたら、それは心が「NO」と言っているのだよ。自分の中に怒りを残さないこと🎵
NOと言えるようになろう
45歳ぐらいを超えてかな。
身体が思うように動かなくなって、仕事を頼まれても出来ないことは出来ないと、仕事を断れるようになって、楽になった。
僕もなかなかNOが言えない人間だったけど、物理的に無理だから断れるようにはなってきてる😀
Noが言えない人のYesに価値はない。
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